コラム

30年前の夏休み

2000年3月20日

 

地下鉄の中で向かいの席に座っている男子高校生達が長い足を投げ出して何かの紙を見せ合っている。ふざけて取り合いしているうち、手を離れた1枚が足元に舞い落ちてきた。通知表とある。そうか、もう夏休みに入るのか。吉田拓郎の「夏休み」という歌が思い浮かぶ。少しもの悲しげなメロディーの単調なリフレインがいかにもアンニュイな夏休みの郷愁をかもし出す。地下鉄に揺られてうつらうつらしながら、30年前の夏休みの記憶に落ちていった。

歴史のK先生に連れられて高校1年の私が着いたのは、「川内」と書いて「せんだい」と読む小さな地方都市だった。街はずれの公民館に着いたときはもう夜になっていた。いくつも蚊帳を吊った大部屋には知らない大勢の大学生達がいて、誰かがフォークギターを奏でている。当時流行していた森山良子の歌は、なんだか楽しそうな甘酸っぱい夏休みを予感させた。

翌朝、8時前に鍬やスコップを担いだ一団が連れていかれたのは国分寺の跡地である。さっそく発掘作業が始まり、5時を過ぎても作業は終わらなかった。フラフラになって帰ってきて、私はK先生の計略にまんまと引っかかったことに気付いた。高校に社研というのを作りたいと先生に申し出たのだが、発掘に行けば許可してやる、たいしたことないよと言われて付いて来たのだ。とたんにK先生の顔が狡猾な奴隷商人の顔に思えた。次の日も、その次の日も、カンカン照りの太陽の下で竹べらで土を削り、歯ブラシで土を払う。逃げ出そうにも逃げ出せない。こんな過酷な目に合っている高校生が他にいるだろうか。1ヶ月間、タコ部屋に入れられて、まるでプロレタリア小説のようだとも思った。

夏休みが終わる頃、真っ黒になってようやく解放されたが、K先生の顔はもう奴隷商人には見えなかったし、不思議とまたやってもいいような気持ちになっていた。

K先生はその後、九大の考古学の教授になり、昨年東京で講演を聞く機会があった。「あのときの田中ですよ」と挨拶したが、先生は「そうですか、そうですか」と肯きながら、どうも憶えていない風だった。考えてみれば私には生涯でただ一度の発掘だったが、K先生にとっては数え切れない発掘の一つに過ぎない。憶えていないのも無理はなかった。それに、30年はやはり永い。懲役でいえば、それこそ終身刑のようなものだ。