コラム

暗愁ということ

2000年4月20日

 

東京の夏は暑いと思いつづけて何年になるだろう。今はどこへいってもクーラーがあるから昔から比べればうんと涼しくなっているはずだが、どうもそんな気にはなれず、今は今でやはり暑い。昔住んでいた江古田のアパートは喫茶店の二階にあった。窓を開けると喫茶店のクーラーから出る熱気が飛び込んで来る。窓を開けないと自らの熱気がこもった。それでも、沖縄に比べたらぬるま湯だと思った。沖縄の暑さは格別というより、別格である。もう20年前になるが、1年間沖縄にいた。住んでいた埋立地のアパートにはコイン式のクーラーが付いていて毎晩暑さに飛び起きてはコインを入れつづけた。

7月の末に金沢に行った。毎年開催地を変えて行われる公認会計士の研究大会で、発表をするのは3回目だった。研究発表の後の記念講演は開催地にゆかりの有名人が呼ばれるが、金沢は五木寛之だった。演目は「地図のない旅」である。こちらも「連結納税制度」についての研究発表をした直後でまだ興奮が冷めていなかった。そのせいか、一番前に席を取ってしまった。こういうときは、かぶりつきになど座るものではない。すっかり肩がこって、東京に帰ってきてからもしばらくは頭が重かった。

しかし間近に聞く五木の話には、ぐいぐいと引き込まれた。さすがに伊達に文士ではない。五木は小説と同様に大衆を酔わせる術を知っていた。「暗愁」という今は使われなくなった言葉がかつてあったという話をした。人は暗愁というからみつくような愁いを秘めて生きるのだという。そう言われると皆神妙に聞くしかない。講演が終わってからも誰もが愁いに沈んだような様子でいたのが、あとから思い返すと可笑しかった。

金沢に来たのは実に四半世紀ぶりだった。その時は確か、正月休みを利用して夜行で来たのだが、通された旅館の部屋が6畳1間でひどく興醒めした憶えがある。なんだ、住んでいる部屋と同じじゃないか。学生の私は鉄鋼業界の業界紙でアルバイトをしていた。仕事は整理部といって新聞記事の割り付けである。黄金分割という荘厳な感じのする言葉と意味をそのときに知った。ストリップ・ミルという鋼鈑を作る機械の名前も覚えたが、ストリップ・ミルの厚板がどうの薄板がどうのといった記事ばかりで少しも興味が持てなかった。整理部長には、一日かけて作った新聞の見出しを使い物にならんと目の前で破り捨てられたりした。その代わりいつも神田のガード下で焼酎を振舞ってくれた。

そういえば、その業界紙に五木が勤めていたことがあると聞いたことがあった。五木とは縁があるらしい。ま、たいした縁ではないが。

そのころ経団連の中にある鉄鋼連盟にときどきお使いに行かされたが、よほど不審者に見えたのか殊のほかガードマンのチェックが厳しかった。

経団連にはこのところ行く機会が多く、先日も製鉄会社のトップの方と同席する機会があったので「鉄鋼連盟に昔よくお使いに来ました」と言ってみたい気分にかられたが、言うのがもったいない気がして言わなかった。

「この道を泣きつつ我の往きしこと、我が忘れなば誰か知るらん」だぜ。この際。