コラム

家族にいったい何があるのだろう

2016年2月20日

 

カンボジアの首都プノンペンに去年行ったときには、日本のうどん屋は一軒しかなかったが、今年は大手の丸亀製麺をはじめ十軒近くに増えていて、さながらうどん戦争の様相を呈していた。

そのカンボジアで聞いた話。カンボジアの人たちは、とにかく家族と離れたがらない。やっと働き口を得て田舎の村から都市にやってきても、仕事に慣れたころには、ホームシックで耐えられなくなり、仕事を辞めて田舎の村に帰ってしまうので、カンボジアに進出した企業では困っているそうだ。日本の私たちは、仕事のために家族と離れるのをあまり苦にしなかったが、カンボジアの人たちは、それが耐え難いのだという。といって、田舎に帰ったところで、何かあるわけではない。待っているのは掘立小屋みたいな、それこそ埴生の宿と、そこに暮らす、こんなことを言っては何だが、あまり血色のよくない、字も読めないような親、兄弟、爺さん、婆さん、親戚のおじさんやらおばさんやらだ。おんぼろバイク一台に家族数人がしがみついて飛ばしている姿は農村でも都市でもよく見かけるし、わずかな商品をぶら下げているだけの小さな店の店先に大勢の家族が固まって店を営んでいる風景も珍しくない。そこにいったい何があるというのか。家族が固まって一緒にいることが幸せだというが、家族にいったい何があるというのか。カンボジアの人たちには、そこに最も大切な何かがあるのだが、それは何なのか。

つらつら思うに、それは人が産声を上げてからずっと離れずに一緒に生きてきた証のような長い親しみだろうか。日本の私たちはそれを割と簡単に手放してきた。手放しても、また他のところで得られる親しみがある。人間至る所ところ青山あり。親しみはその場その場で変わっていくものだと考えた。それでいいのだと。しかし本当にそうだったのか。失った親しみを別の親しみで償うことができたか。家族の親しみは、そのときどきの隣人の親しみで償うことができたか。答えは、おそらくノーだ。

カンボジアはいま高度経済成長の真っただ中にある。カンボジアの人たちも、日本の私たちと同じように、これから家族の親しみを失っていくのか。それとも、家族の親しみを失わずに経済発展を遂げられるのだろうか。