コラム

水に落ちた犬

2016年5月20日

 

現代は異常な時代である。といっても、そんなことはもうみんな知っているよといわれそうだが。私が思う現代の異常は、私たちの周りにあふれ返るおびただしい数の写真や画像である。人類の歴史に初めて写真が登場したのは、1826年である。フランスのニエプスが、8時間かけて一枚の写真を撮ったのが始まりだという。それから、200年も経たないうちに、写真は驚くべき数に膨れ上がった。特に近年のスマホの普及によって毎日撮られる写真や動画の数は幾何級数的に増え続けている。おそらく世界中で増え続けるゴキブリの数よりも多くの写真や動画が毎日撮られていることだろう。目の前の料理。風景。家族。知己。ペット。そして、水に落ちた犬…などなど。

都知事の舛添要一氏が政治学者としてテレビの「朝まで生テレビ」などに出ていたころ、「あれっ、この人、新聞に書いてあることしか言わないんだ」と思ったことがある。もう一人、同じように思ったのが政治学者の姜尚中氏である。そのうち、この人たちは言わないのではなく、言えないのだとわかった。舛添氏は学校の成績は良かったらしいが、独自の見方や考え方というものがまるでなく、あるべき見識や表現力からも見放されているように思えた。姜氏の方はといえば、独特の重々しい語り口を通して、聞こえてくるのはつまらないことばかりだった。

私がテレビを通してわかるぐらいだから、自分でもわからないはずがない。舛添氏はやがて政治学者に見切りをつけて、政治家に転身した。しかし、政治家でも「新聞に書いてあることしか言えない者」に何ができただろう。やはりパフォーマンスだけでは、三流の政治家に甘んじるしかないことを身をもって知らされたはずだ。そこで、次に彼が逃げ場所として見つけたのは、政治家であって政治家でないような都知事というおいしい椅子だった。彼にはもう、趣味と蓄財に励むことしか残されていなかったが、彼はそこに最後の安住の地を見出していた。しかし、それで治まるものではなかったのだ。