コラム
希望
2026年1月20日
いまのデジタル文明はいずれ滅びて、人類の歴史にかつてそういう頽廃の時代があったと語られる日が来るだろうね、と友人のKはいう。デジタル文明の異常に人々が耐えられなくなって、デジタル文明を葬ってしまう日がいつか来るとKは予言するのである。
どこからどこまでをデジタル文明というのかよくわからないけれど、今の社会のデジタル化は人類に取り返しのつかないほどの頽廃を及ぼしているのではないかと僕もときどき感じることがある。
しかし、そもそも人は頽廃が好きなのだ。それが証拠に、あれよあれよという間に、人々はこのデジタル文明に嬉々として自ずからのみこまれていったではないか。
ところで、人間の社会は人々の利害によって動いているのであって、なにもある種の正義によって導かれているわけではない。今のデジタル文明も、そこに利害のある人々によってもたらされたものである。それは、その人たちが社会のデジタル化によってこれまで類を見ないほどの莫大な富を築いたことでもわかる。
人が利害によって行動するのは悪いことではないと、資本主義の勃興期にプロテスタンティズムが人々の背中を押したことが始まりになって今のような社会になったのかもしれないが、果たしてそれでよかったのか。やはり人は利害によってではなく、信仰や良心によって行動すべきではなかったのか、といってももう遅い。
希望という言葉がふいに浮かんだのは、しばらく引き出しの中に忘れていたボールペンや万年筆のささやかなコレクションを引き出しの奥から取り出して、一つ一つに触れていたときのこと。その一つ一つがただのモノではない、なにかに思えてきて、なんだろうこれはと不思議な感じがしたとき、それはおまえの希望だと心の声がささやいた。
こんなものが自分の希望をあらわして、宿していたのだと思うと、悲しいような、どうしようもないような、なさけないような気がしたが、それでも胸の奥にかすかな灯りがポッとともったのを感じた。
