コラム

バックオーライ

2023年10月19日

 

人類の歴史上もっとも偉大な発明は何か。文字と答える人がどれだけいるだろうか。文字は、古代メソポタミアのシュメール人が苦心して考案し、地球上のすべての文字はそこから派生したというのが有力な説である。その文字の読み書きを日本人は昔からどのようにして習い覚えてきたか。八鍬友広という人の『読み書きの日本史』を読むとよくわかる。

 

書店でこの本を見かけたとき、僕は著者が旧知の八鍬さんと何か関係のある人ではないかと思って手に取った。どうも関係はなさそうだったが、本の序文が面白かったので読み始めたら、もうページを閉じられなくなった。

 

僕の知っている八鍬さんは、最後に会ったのが六年前だった。待ち合わせの場所に色眼鏡で杖をついて現れたときは、過去から蘇ったあの伊藤律のようだと思った。目も耳もかなり不自由で、歩き方もおぼつかなかった。これが最後になると思うと言いながら、新宿で一緒に焼酎を飲み、思い出話をひとしきりして別れてから、それきりになり、何か物を送っても返ってくるようになった。

 

八鍬さんは政府系金融機関を辞めて公認会計士になった人だったが、若い時からずいぶん目をかけてもらった。韓国クラブ通いで覚えたという怪しい韓国語の歌が得意だった。フィリピンパブ通いで覚えたという変なタガログ語の歌もである。六十年安保の時の東大全学連の生き残りで、同じブントの仲間だった思想家の西部邁に会ったらよろしくと言われていたが、果たせないまま、西部邁も多摩川に入水して世を去った。

 

本の話に戻ると、この本で初めて知ったことがある。平安、鎌倉、室町時代から江戸時代を経て、明治初期まで、私たちの祖先は、文字の読み書きを習うのに、「往来物」(おうらいもの)と呼ばれる手紙文の文例集を手本にしていたということである。この奇妙な名称の教材が、日本の読み書きの歴史の中でひときわ異彩を放っていると著者は言う。

 

この本を読んだら、おそらく誰もが、ふだん日本語で読み書きしていても、自分がその歴史についてほとんど知らなかったことを悟るだろう。それで、自分が何も知らずに生きてきたことを振り返って悟ることができるのが収穫になる本だと思った。