コラム

折り丁の糸かがり

2021年10月20日

 

広辞苑は、中学の時に先生に勧められて買ってから手元に置くようになり、改訂の度に買い換えていたが、あまり引くこともなかったせいか、まず装丁が壊れるということはなかった。たまに開くときがあると、いつもインクのにおいがしたのは、ほとんど使わなかったことの証なのだろう。いつの間にか、手元にも置かなくなってしまって、広辞苑には済まないことをした。

 

このところ使っている英語の辞書は、よく壊れる。前に使っていたものや気に入らずに積んであるものもあるにはあるが、その中で好んで使っている辞書は、二年ほど前に革装と並装で二冊同じものを買い揃えた。革装の方は枕元において寝る前にしか使わなかったが、並装の方は酷使したので、背表紙が剥がれ、寒冷紗が裂けて、折り丁の糸かがりの糸がちぎれそうになっている。そして前小口がだいぶ黒ずんでいる。寒冷紗とは、本の中身と表紙をつなぐ芯材となる荒い平織りの布をいう。折り丁は、冊子の大きさに折り畳まれた刷り紙で、真ん中を糸で綴じてある。前小口は、辞書をパラパラめくるときに使う面である。それで、辞書は、酷使すると1~2年で前小口が黒くなることと、背表紙から剥がれて装丁が壊れることを知った。けれど、若いときから、辞書を酷使することを知っていれば、もう少しましな人間になれたろうにと思う。

 

三年前に事務所を移転したとき、書庫として借りてあった部屋の蔵書を全部処分した。そのとき辞書の類は、古本屋もどうせ持っていかないだろうと手元により分けておいた。この間、なにかで永井荷風が「鴎外全集と辞書の言海さえ読んでいればいい」というようなことを書いていたのを目にして、そういえば、手元の辞書の中に「大言海」があったのを思い出し、本棚から引っ張り出した。言海は大槻文彦が明治三十年代に編纂した辞書だが、大言海は昭和57年に冨山房から記念出版されたものだ。

 

鴎外全集の方はともかく、大言海は、さすがにもうインクのにおいはしないが、ほとんど引いた形跡がない。引いた記憶もないから当然だが、これも前小口が黒ずみ、糸かがりの糸がちぎれるまで、引かなくてはならなかったのだ。試合終了のゴングは、まだ鳴っていないけれど。