コラム
クラウディア
2025年10月20日
ナポリ座といったと思うが、高校の授業を抜け出して市電にゴトゴト揺られながらこっそり映画を見に行ったものだ。鹿児島市内にかつてあった場末のさびれた名画座である。観客はいつもまばらで、ときおり補導係がいないかと暗がりに目を凝らすと、のちに文科省の役人になり映画評論なども書くようになった同級生のTの姿を見かけることもあった。ナポリ座に掛かるのは決まってフランス映画やイタリア映画だった。なかでも深く心に残ったのは、シモーヌ・シニョレの『影の軍隊』である。次々に非業の最期を遂げるパルチザンの姿に自分もいつかと思ったものだったが、どうやら自分には非業の最期は訪れず、映画の中の話で終わりそうである。
オードリー・ヘップバーン、カトリーヌ・ドヌーブ、最近亡くなったクラウディア・カルディナーレもよく登場した。
トーマス・マンの小説『魔の山』に、主人公のハンス・カストルプが恋する女性としてクラウディア・ショーシャ夫人が出てくる。僕は『魔の山』のショーシャ夫人にクラウディア・カルディナーレの姿を重ねて想像した。ハンスがクラウディアに初めては話しかけたとき、「君は新しい服を着ているね」と言うと、「あんたはわたしの持っている衣裳にくわしいのね」とクラウディアは応じた。「これお気に召して?」、「とても」。クラウディアが遠くへ去った後、ハンスは、クラウディアの心臓や肋骨が写ったレントゲン写真を思い出に隠し持っている。いつか自分もと思ったものだったが、これもどうやら小説の中の話で終わりそうだ。
クラウディア・カルディナーレは、フェリーニの『8 1/2』にも出てくる。そのときからもう五十年にもなるが、日活の調布撮影所を訪ねて、日活ロマンポルノの神代辰巳監督にインタビューしたことがあった。ひとしきりインタビューが終わって、監督に「田中さんはどんな映画が好きですか」と聞かれて、とっさに「フェリーニの『8 1/2』が好きです」と答えたのを覚えている。ほんとは、『8 1/2』など好きも嫌いもなく、というよりよくわからず、その頃東映の『網走番外地』とか、『昭和残侠伝』とか、『緋牡丹博徒』とか、ひたすらやくざ映画が好きだった時期なのだが、神代監督の前でつい背伸びをしてしまった。
振り返ると、恥の多い生涯を送って来たことだけは、小説の主人公にも引けを取らない。