コラム

子どもより親が大事

三鷹の駅前にその昔「山の音」という喫茶店があって、よく通ったものだった。漫画家の山松ゆうきちが近くに住んでいて、打ち合わせに使っていた。山松が借りていた家にも何度か行ったが、山松は宵越しの金を持たないデカダンな表現者の流儀を地でいっていたので、がらんとして何もない家だった。

 

三鷹はすっかり変わってしまったが、その頃と変わらないのは、6月になると太宰治の桜桃忌が催されることだ。桜桃忌は、太宰が亡くなった年に書いた短編の『桜桃』にちなんでいる。『桜桃』は、「子どもより親が大事と思いたい」の書き出しで始まり、「子どもより親が大事」で終わる。といっても、中身は子どもと妻のいる家庭の大変さから逃げ出して、「生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す。」などと、いくらかもっともらしいことをいいつつ、どこか酒を飲む場所で親しい女性を相手に、その頃は子どもたちが見たことも食べたこともない、高価な桜桃を食べる父の話である。父はいい気なものだが、しかし、太宰の「子どもより親が大事」という言葉には、共感するところがある。

 

このところ、子どもの虐待が取り上げられることが多い。虐待されるのは子どもだが、親は虐待されるよりも苦しい罪を背負わされている。今の時代は子どもを守れというばかりで、親を守れという意見は聞くことがない。そんな中で、我が子を死に至らしめてしまった親の心情を思うと哀れで悲しい。子どもを守れというのは、子どもが希少財だから、将来の労働力だから、早い話、親より子どもを大事にする方が経済的に得だからというのであれば、あまりにさみしい。

 

いうことをきかぬ子というのは、いるものである。自分がそうだったから、わかる。おまえを殺して自分も死ぬと母親が追いかけてきたことがあった。本気だと思って、アカンベーをしながら必死で逃げた。親はよく我慢したものだと感心する。自分が親だったら、とうてい我慢できなかった。