コラム

ハラスメント・ハラスメント 

2019年1月20日

 

獅子は千尋の谷に我が子を突き落とすというが、もし今の時代にそれをやったら、どうなるか。獅子といえども、ただでは済まない。動物界からの引退まではないだろうが、さすがに百獣の王の地位からは降りることを余儀なくされるだろう。我が子に修羅場を経験させて一人前に育てようなどという気概は、虐待とかハラスメントと言い換えられて、バッシングされるだけの時代になったのだ。自分の子ですらそうなのだから、他人の子に修羅場を経験させようなど、正気の沙汰ではない。

 

パワハラ、セクハラ、マタハラから、嫌がらせのモラハラ、臭いのスメハラときて、ついにハラスメントだといってハラスメントをするハラスメント・ハラスメント、略してハラハラまで出てきた。これを世も末というのか、ハラスメントは行きつくところを知らない。

 

人は動物のように噛みついたり、取っ組み合ったり、ジャレたりすることなく、植物のように当たらず触らず、常に一定の距離を保って生きていくのが時代の流儀になったのだ。

 

東大安田講堂事件50年という記事が新聞に載っていた。1969年、「東大解体」という既成の権威を否定する合言葉が現実味を帯びて叫ばれていたころ。あれからもう50年も経つのか。江戸時代が終わってから今日までの150年間のうちの3分の1にもなる。50年の間に時代はすっかり退化して、今は完全に思考を停止した「東大王」などという臆面もない言葉が平気で横行している。もっとも、韓国で「バカの箱」というらしいテレビの中の話で、「バカの箱」の中では、お笑い芸人という名の幇間たちが我が物顔にふるまっている。植物のように生きて時間をやり過ごすことが人生になった社会では、彼らが主役なのだ。

 

夜空を眺めて、星を探すのがひそかな楽しみになった。東京の空で、目を凝らしても見えるのはせいぜい3つか4つだが、多い時には7つぐらいも見えるときがあって、そんなときはひとり心が沸き立つ。星を見上げて物語を紡ぎ出した古代人たちのことをときに想像しながら、ずーっと見ていても飽きない。