コラム

矢のごとく

2002年4月20日

このごろ、時間について考えることが多い。あっという間に1週間が過ぎる。1ヵ月が、半年が、そして気がつくと、1年が過ぎている。うーん、思い返してみると、生れ落ちてからの数十年も矢のように過ぎた気がする。生きるとは、時間を生きることではないかと、もっともらしく言ってみても何も始まらない。

他人はどう考えているのだろうと思って、時間論の本をめくるがどうもぴんと来ない。「1分前の出来事はどこかへ消えてしまっただけである。どこへか?謎である。1分後の出来事はいまや生じてしまっただけである。どこからか?謎である。いったい、これは何なのだ?すべては錯覚かもしれない………。」などと、哲学者は書いている。いったいこれは何なのだ?

それにしても、誰もが記憶している過去、それぞれの人の人生そのものである過去、歴史の教科書にも書かれている過去、『NHKアーカイブス』に出てきたり、『プロジェクトX』に出てきたりする過去は、いったいどこへ消えたのだろう。ひょっとすると、時間は限りなく多くの部屋を持っていて、その部屋の1つ1つに過去から未来までの出来事がすべて収容されているのではないか。我々は寿命が続く限りその無数の部屋を渡り歩くのでは…。

ところで、レスター・サローが『日本は必ず復活する』を書いてからすでに4年が経過している。もちろん、復活の兆しなどは一向に見えない。サローに言わせれば、日本には優秀な労働者、優秀な企業、優秀な技術があり、経済の基礎的な条件は整っている。あとは、システムの問題だというのである。サローの処方箋は、つきつめれば日本経済のシステムをアメリカ型にすればいいというものだ。その種のもの言いをするアメリカ人は、サローに限ったわけではなく、テレビのチャンネルをひねればわんさと登場する。もちろん日本人も。

18世紀にインドに進出したイギリスは、19世紀初頭にはこれを完全に植民地化し、インド経済をイギリス経済に奉仕する体制に作り変えるのに成功している。そうした中で、イギリス型の租税制度や司法制度がインドに導入され、英語教育が強力に進められた。当時のインド総督の回顧録か何かをめくってみれば、そこに「インドには、優秀な労働者、優秀な技術があるので、システムをイギリス型にすればきっとうまくいく」というような発言を見付けるのは多分むずかしくないだろう。

歴史には同じことが二度起こることがあると、マルクスは言った。一度目は歴史的出来事として、二度目はその戯画的な再現、醜悪な茶番としてであると。