コラム

一人分のたいへんさ

2002年6月20日

 

日本国債の格付けが下がって、チリよりも低く南アフリカやポーランド並みになったという。格付けというのもなにやら胡散臭く、眉に唾を付けたくなる代物だが、チリというとすぐアルゼンチンを連想するので、多少不安な気にはさせられる。しかし、国債の方はともかく、わが日本国の格付けはどうかというと、下がって当然といえる。というのも、今の日本にあるものといえばマスコミの増長と異常な影響力、政治家の奇矯と無能、去勢され宦官化した役人、公共事業の代わりに減税をおねだりする財界、と悪い要素ばかりである。一体どこの誰がそんなことを画策したのか。80年代に最悪の状況に陥った米国のクリントン政権が浮上するために、日本つぶしを画策したことは確かだが、それだけではない。もとはといえば、この状況はわが国の新中間層と呼ばれる人たちが好んで招き寄せたのではないかと思う。新中間層は、戦後のサラリーマン社会の中から学歴信仰を核に浮上してきたエリート・サラリーマンの階層だが、彼らの意識や感覚が、この国で支配的になってきたことが今日の状況につながったと見る。それは、そんなに昔のことではなく、だいたい20年ぐらい前からである。

彼らの意識や感覚と言ったが、それは彼ら自身が考えているほどに知的でも複雑でもなく、ただの上昇志向と差別化意識からできている。実際景気のよかったころ、彼らが「日本人の給料は高すぎる」と言っているのを何度も聞いた。もちろん、自分たち以外の日本人の給料のことだが。それから、「土地が高すぎる」の大合唱もやかましかった。それは、土地所有者が土地を持っているだけで自分たちの優位に立つのを許せないという嫉妬の表明だった。しかし今、この新中間層が自分で招き寄せた状況によって自らが拠って立っていたサラリーマン社会が崩れつつあるのは皮肉なことだというしかない。基盤が崩れた新中間層は、必死にあがいているが、しかし彼らが力をとりもどすことは二度と再びないだろうという気がする。

それにしても、人ひとりが生きていくのはたいへんなことだと思う。悠々と生きている人も、飄々と生きている人も、私のようにやっと生きている人も、実はみな同じたいへんさを抱えて生きている。たいへんさの天の配分はみな同じである。それを強く感じる人もいればあまり感じない人もいるだろうが、たいへんさは皆同じ。そんなに天は甘くない。

ラッシュの中で人とぶつかる。この人も自分と同じでたいへんなんだ。人は皆そのたいへんさを共有しているんだと思うと、そのときだけ少し優しい気分にはなれる。