コラム

世界中の誰よりも

2002年8月20日

 

人気女優の結婚のニュースを聞いたりすると、昔は相手がうらやましいような気がしたものだが、最近はたいへんだろうなあと忖度する。おそらく人気女優の家事能力はゼロに近く、衣類は投げ散らかし、ゴミやホコリはたまり放題、料理はお手上げ、食い物は食い散らかし、流しは腐臭と洗い物の山、と来ているだろうから、誰だって長く持つはずはないのである。しかし、家事能力の低下は人気女優だけでなく、最近は普通の家庭でも似たり寄ったりの状況に近づいているようである。女性の家事能力の低下と引き換えにわが国の高度経済成長があったのだとすれば、国民経済計算にカウントされていなかった女性の労働力が表に現れただけのことで、案外それが現れきったところでわが国の経済成長がストップしたということかもしれない。ポール・クルーグマンがかつて、日本以外の東アジア経済の急成長は労働人口の増加分に応じただけのものだと喝破したことがあったが、その伝でいくと日本も例外ではなかったということになる。

ところで、われわれ人間の経済活動には、あやふやなところやまやかしの部分がつきまとう。例をあげれば、一文無しの素寒貧でも羽振りがよさそうに見せなければならないときもあるし、笑いが止まらないほど儲かっていてもちょぼちょぼですよなどといっている人もいる。のどから手が出るほど欲しいのにその素振りを見せないとか、欲しくもないのに欲しがって見せるなどということもよくあること。

こうした経済活動が集積して出来上がっているのが一国経済、あるいは世界経済というものだ。である以上、相当まやかしの部分があるはずである。もちろんあっておかしい話ではない。いやむしろ、経済というものは、あやふや、まやかしの集積したものであるというべきだろう。それに乗って踊っているのがもともと人間というものである。調子に乗って踊りすぎたために損をした人もいれば、用心しすぎて乗らなかったために利を得られなかった人もいる。うたかたのような人生と言うぐらいで、人間にも経済にも泡やバブルは付き物なのだ。

ところが、所詮そうしたあやふやなものを、そうじゃないかのように喧伝しすぎたのである。何かと言うと、米国の企業会計のことである。企業会計も人間の経済活動を反映するものである以上、あやふやさを免れるものではないはずだ。ところが、米国の企業会計は、時価会計とか何とか言って、その情報がいかにも正確で絶対信頼できるものであるかのようにいいつのった。そしてその企業会計の情報に経済活動が過剰に依存していた。その過剰依存が破綻しはじめたのがアメリカの今の状況であると思う。

米国の企業会計と監査を巡る事件は、資本主義の根幹を突き崩しかねない事件だなどと騒がれているが、なーに、資本主義だってもともとはうたかたのようなものだ。その原点に立ち帰ればいいのである。