コラム

時間を超えて

2004年1月20日

 

金嬉老の立てこもり事件ですっかり有名になった寸又峡温泉の旅館にいて、いのしし鍋をつつきながらテレビを付けたら、ブラウン管の中で太ぶち眼鏡の小渕さんが平成と書いた紙を掲げていた。それが平成という時代の始まりだったが、あれからもう15年もの時が経ったのだ。その15年の間に世界ではいろんなことが起き、わが身にもさまざまなことが降りかかった。15年前の自分に比べたら、今の自分はまったく別人といってもいいくらいである。

時間を旅する話は、小説やドラマにはよく登場する。H.G.ウェルズの「タイムマシン」から、「バックトゥーザフューチャー」、新しいところではマイケルクライトンの「タイムライン」が封切られたばかりだ。見に行きたくてウズウズしてくるが、人がこういう話に惹かれるのはなぜだろう。身は現在にありながら、心が常に過去や未来に生きているからではないかと思えてくる。そういえば、人の意識のほとんどは過去や未来に関することで占められているといえなくもない。

ところで、過去や未来に自由に行くことができるとしたら、日本ではどの時代に行ってみたいだろう。傍観者としてならどの時代でもいい。観光客と同じことだから。しかし、その時代に移住して、その時代の住人として生きるのだとしたらどうだろうか。移住先の第1希望としては、幕末から明治にかけての混乱期がいい。それから、第2希望は戦後の混乱期。だめなら、第3希望で戦国時代の混乱期でもいい。なんとなくNHKの大河ドラマの設定に似てきたが、いずれにしても、古い権威が崩壊して新しい価値が創造されようとしている時代、そういう時代がいい。

90年代、共産圏の社会では権威の崩壊が起きて、新しい価値の創造が始まった。世界的にはこの崩壊の意味は大きいが、日本の社会では戦後形成された一流企業やら一流大学やらといった価値観や権威はまだ崩壊していない。週刊誌や新聞、テレビがくだらないのは、結局のところそうした権威に寄りかかってうんざりするような価値観ばかり振りまいているせいだが、今の日本は社会が変化しているという幻想を醸し出しながら、いままでの権威が隠微にまだ保たれている状態である。だから、本当の意味の変化は何も起きていない。起きるとすればこれからである。何をきっかけにして、いつ起きるか。できることなら、命あるうちにそういう時代に行き会いたいと思う。