コラム

死の棘が刺さっていた頃

 2005年12月20日

 

『死の棘』の作家、島尾敏雄に会ったことがある。なにかの会合の折りに二言、三言言葉を交わしただけなのだが、なんて陰気な人だろう、死の棘が刺さっているみたいだというのがそのときの私の印象だった。

それから何十年も経って、古いものを整理していたら、そのときの会合の写真が出てきた。写真は古い雑誌の間にはさまっていた。

写真には、何人かの見覚えのある人やない人に混じって、ひどく痩せこけて陰鬱な顔をした二十代の男が写っていた。ほかでもない、私だった。ハハハ、そうだったのだ。死の棘が刺さっていたのは島尾氏ではなく、私の方だったのだ。

ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』は、1972年にみすず書房から出版されたのち、しばらく絶版になっていた。図書館から借りて一読した私は、当時なぜかその本にとりつかれた。ドイツ生まれのハンナ・アーレントは、ユダヤ人の哲学者だが、孤独な群衆から成る大衆社会が全体主義の扉を開いて、ナチズムへといたる過程を全3巻の本に描き出していた。それは、目の前にある私たちの社会の姿そのものでもあった。古本屋を探し歩いて、池袋で一冊、早稲田と神田で一冊ずつと、苦労して全部をそろえ、それから1年ほどは『全体主義の起源』に没頭して何度も読み返した。疲れるとカフカの『城』を読んだ。どう考えても、その当時の私が陽気になれるはずがなかった。

『死の棘』も、その少し前に読んでとりこになった小説だった。

ところで、島尾の『死の棘日記』についてのコラムが、日経新聞の日曜版に連載されている。ビジネスを身上とする日経新聞の紙面に、対極のものが載っているのがおかしくて、つい毎週読んでしまうが、編集者は案外アンバランスの妙をねらっているのかもしれない。

このごろ妙に思考停止が気になる。テレビを見る。ああ、思考停止だ。新聞を開く。ああ、思考停止だ。軽い本を読む。ああ、思考停止だ。音楽を聴く。ああ、思考停止だ。こうしてみると、人間は(と他人も巻き込んで)、始終思考停止ばかりしている。

今年も、あとわずかで終わる。今年こそ、今年こそと思いつつ、砂を積むような年月を今年も重ねている。