コラム

歩くバランス・シート

2007年1月20日

 

人間というものは、歩くバランス・シートのような存在だとふと考えた。バランス・シート、つまり資産と負債の両面があり、会社なら会社の財産や借金の状態を表すものであるが、人は自分のことが資産のように思えるときもあれば、逆に負債のように感じることもある。だいたい人が自信に満ちて強気のときや幸福なときは資産で、くよくよと思い悩む弱気のときや不幸なときは負債である。自分の将来についても、資産のように思えるときもあれば、負債のように感じることもある。これは別の言い方をすれば、輝かしい未来か、それとも暗澹たる先行きかである。また、自分の過去が資産のように思えるときもあれば、負債のように感じることもある。過去の栄光とか、不名誉な過去とかである。

それから、夫が妻のことを資産だと感じたり負債だと感じたり、妻が夫のことを資産だと感じたり負債だと感じたりということもよくあるだろう。これは、一方が資産だと持ち上げればもう一方も資産だと持ち上げ、一方が負債だとこき下ろすようなことがあると、もう一方も負債だと応酬するような関係である。もちろん親が子を、あるいは子が親を資産だと感じたり負債だと感じたりすることも、ありすぎるくらいあるはずである。といっても親子の方は夫婦と違って、たとえば一方が負債だと感じていても、もう一方は資産だと思い続けているような関係であったりする。

しかし、だからといってこの人間バランス・シートは、簡単に放り出したり清算したりするわけにはいかないところが、いかにも厄介といえば厄介である。もっとも、ときどきはバラバラに切断されてあちこちに棄てられたりすることもあるから、タカをくくっているといけない。

時代劇を見ると、昔の人たちは資産とか負債とか、どうもそういう感じ方はしていない。昔の人たちは、たとえ将来が暗澹たる先行きであっても、悲観も楽観もせずにそのままその道を宿命のように歩いている。『おじさんはなぜ時代小説が好きか』という本を前に読んだ。何が書いてあったかとっくに忘れたが、「おじさんはなぜ時代劇が好きか」と聞かれたら、その「暗澹たる先行き」を悲観も楽観もせずに宿命のように歩くところが好きだと答えたい。