コラム

ピラミッドの秘密

2014年1月20日

 

大学入試センター試験の日本史の問題に手塚治虫のマンガが取り上げられているというので、新聞をひろげてみたら、昭和3年に生まれた手塚治虫の誕生から漫画家になるまでの足跡に合わせて昭和の歴史を取り上げた問題が出ていた。「紙の砦」というマンガを題材に、手塚治虫が生まれたころの昭和恐慌から、戦時中の勤労動員を経て、医者とプロのマンガ家を目指し、やがて高度成長下の日本で「鉄腕アトム」が放映されるまでの足跡を追いながら出題している。

問題は、そんなに難しくない。この程度のことを知らないと小説も読めないし、それこそ漫画を読んでも面白くないだろうというくらいだ。ちょうど今、宮部みゆきの『蒲生亭事件』を読んでいるところだが、この小説も昭和11年に起きた二・二六事件のことを知らないと話にならない。

しかし、手塚治虫の足取りを追っていくと、実はもっと面白い歴史の発見がある。手塚治虫は我が国を代表する漫画家だが、医師国家試験に合格し、医師の免許を有する医師でもあった。医師の国家試験を受けるためには大学の医学部を卒業していなければならない。手塚治虫は大阪大学医学部を卒業したことになっている。しかし、手塚治虫が卒業したのは、正確にいうと、大阪大学医学部附属医学専門部であった。大阪大学医学部と附属医学専門部とは同じではない。大阪大学医学部は大学の医学部だが、附属医学専門部は大学ではなく、戦争中に作られた専門学校である。兵隊と一緒に軍医も消耗品のように戦場に送られて死んでいった時代に、3年間で軍医を速成で養成するために臨時に設けられた専門学校だった。その頃の軍医の死亡率は高く、お先真っ暗だった。手塚治虫は、昭和20年の16歳の時に大阪府立北野中学校を卒業し、大阪府立浪花高校を受験したが失敗し、そのまま大阪大学附属医学専門部に入学したのである。大阪大学附属医専は、戦後は期間5年に延長されたが、手塚らの卒業とともに廃止された。

日本の大学アカデミズムは、明治3年に発足した東京大学医学部を起点として、強固なピラミッドを立ち上げて現代に至っている。いま人々の目には、立派なピラミッドの姿しか映らないが、そのピラミッドの下には人々の目に触れないいろんな歴史が埋まっている。