コラム

戦争が廊下の奥に立ってゐた

昭和14年の『昭和俳句作品年表(戦前・戦中篇)』の頁に、渡辺白泉のこの標題の句が載っているのを見つけて、白泉はこれで特高に引っ張られたんだったっけなどと思いながら、パラパラめくっていたら種田山頭火の句も同じ年に載っていた。ああこのころはまだ山頭火も生きていたんだと思って調べてみたら、山頭火は昭和15年に58歳で亡くなっていた。

白泉は昭和15年に、京大俳句事件に連座して、特高警察に治安維持法違反の嫌疑を受け投獄されて、執筆禁止命令を出されている。それでも昭和19年には、グラマンの編隊に襲われて、「戦争はうるさし煙し叫びたし」と詠んだ。そして昭和20年の終戦の時を迎えて詠んだのが「玉音を理解せし者前に出よ」であった。ラジオから流れる「…耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」の玉音放送は何を言っているか分からず、軍隊では「前に出よ」といわれて上等兵に殴られるのを常としていた。

前に、幕末から明治にかけて伊那谷を放浪した漂泊の俳人「井上井月」の映画が田中泯の主演で公開されて話題になった時、俳人たちが集まる店で飲んでいたら、「山頭火の映画を作るんだったら主演は田中さんしかいないね」と私のことを言われたことがあって、その時はなにやら複雑な気持ちだったが、いま画像を見てみると、確かに似ていなくもなく、やっぱり複雑な気持ちである。まあ、山頭火に似ていると言われて、喜ぶ人はいない。たいていは複雑な気持ちになるだろう。

山頭火は大正15年に得度して雲水姿で旅に出ている。その年の句が、「分け入っても分け入っても青い山」である。それから、5年経って、「どうしようもない私が歩いている」。2、3年後に「鉄鉢の中へも霰」ときて、「この道しかない春の雪ふる」が昭和9年、放浪の旅も終わりの頃である。

俳人たちが集まっていた店も閉店してもう3年ぐらいになるが、その店でいつも「先生、先生」と呼ばれている人がいた。村上護という、山頭火の評論や評伝ばかり書いていた人だったのだと調べてみて改めてわかったが、一昨年癌で亡くなったこともわかって、いつも顔を合わせていたので思い出してしんみりする。