コラム

日本軍の戦法

自分がもし大正時代に生まれて、徴兵され、招集されて旧日本軍の兵士となり、南方の戦地に送られていたらどうなっていただろうと想像するのは苦しい。結末がわかっているからである。

当時の兵隊たちは、自分たちの行く手にどんな運命が待ち受けているか知らなかった。日本軍は強い軍隊であると思い込み、銃後の人たちを守るのだという義務感を抱き、何が起きるか先はわからないというわずかな希望に支えられて、明治38年製の三八式歩兵銃を担いで、戦地に赴いたのである。しかし、彼らが目にした現実はどうだったか。日本軍は強いどころかむしろ連戦連敗の弱い軍隊であり、貧弱な兵站のために糧食や薬品は届かず、戦闘で倒れるよりも飢えや病気で倒れる者が多く、最後はバンザイ突撃という名の、あるいは玉砕という名の集団自殺を選ぶしかなかったのである。

米陸軍軍事情報部が1942年から1946年までに出版して米軍兵士らに毎月配った戦訓広報誌に書かれた内容をもとにした『日本軍と日本兵』(一之瀬俊也著)によれば、日本軍の戦い方はワンパターンで完全に米軍に読まれており、勝つ見込みはなかったことが分かる。日本軍の戦法は、柔よく剛を制すことを狙いとする奇襲攻撃一辺倒であった。奇襲効果を挙げるために、常に夜間作戦を用い、敵をおびえさせるために大きな叫び声を発しながら突撃するが、攻撃パターンが完全に読まれており、もはやそれに惑わされる者はおらず、そこには正確な機銃掃射が待っているだけであった。日本軍はそれが失敗して、多大の損害を被っても、何か新しいことをしようとはせず何度も同じ作戦を繰り返した。そして最後は、大部隊が狂ったように絶叫しながら援護もなく突進してはなぎ倒された。

日本軍は、最初からまっとうな戦いを避けたわけではなかった。火力や国力で劣る中国軍には正規戦で当たっていたが、火力や国力で勝る欧米、特に米軍には奇襲や夜襲に頼るしかないと考えていた。真珠湾攻撃やシンガポール攻撃なども奇襲の好例であるが、それ以降の作戦も常に小細工を弄した奇襲や夜襲だったのである。

戦国時代の織田信長でも、桶狭間のような奇襲は一回きりだったというのに、常に桶狭間を目指さなければならなかった旧日本軍には、戦争に勝てる見込みなどなく、銃後の人たちを守る力など最初からなかったのである。