コラム

新宿ゴールデン街のこと

2018年5月20日

 

新宿の靖国通りから区役所通りに折れて、一つ目の路地を右に入ると新宿ゴールデン街の入り口を示すゲートがある。そこから、迷路のように入り組んだ路地に足を踏み入れると、白人の観光客が多いのに驚かされる。狭い路地を行き交う客ばかりでなく、店の中をのぞいても、大柄な白人がカウンターを占領して楽しそうに座っていて、まるで屈託がない。日本人の客も若い男女が多く、明るく賑やかな街の様子はかつてのゴールデン街とはまるで違っている。こうした光景は2010年代に入ってからではないかと思う。それまでも欧米系の観光客を見かけなくはなかったが、日本人を圧倒するほどではなかった。

 

それでは、かつてのゴールデン街はどんな街だったか。しばらく自分の若かったころと重ね合わせながら振り返ってみよう。ゴールデン街に初めて足を踏み入れたのは、1970年代の半ば頃、22~23歳のころだった。作家の田中小実昌さんに連れられて行ったのが最初で、威勢のいいママさんがいる『まえだ』と映画の鈴木清順監督の奥さんがやっていた『かくれんぼ』のハシゴをしたのを覚えている。そのときはそれきりだったが、ゴールデン街によく行くようになったのは、それから、1~2年して、大学の先輩で当時日活の助監督をしていた伊藤秀裕さんと『ひしょう』に行ってからである。『ひしょう』はその後社会党の代議士になる長谷百合子さんがママをしていた。当時私は劇画の原作などというやくざな商売を生業にしていて、朝まで飲んでいても平気だったので、内藤陳がやっていた『深夜+1』などへもよく立ち寄ったものだ。

 

ゴールデン街から遠ざかった時期もある。東京を引き払って沖縄に移住していた1年間と、帰ってきてから公認会計士試験の受験をしていた1年半ほどの期間。しばらく離れていたが、80年代後半に入って、百人町の自宅まで歩いて帰れるようになるとまた頻繁に行くようになった。『無酒』、『あけぼの』から、看板のない『くみさんの店』に寄って帰るのがいつものコースだった。くみさんの店は、知る人ぞ知る人気の店で、あの中沢新一が隣に座っていたり、いいだももと岸本重陳が飲んでいて、「君は沖縄の○○君だろう」といってずいぶん絡まれたりもした。どの店もいい店だったが、今はあとかたもない。