コラム

仁義礼智信

2017年12月20日

 

二十年ほど前になるが、ある会館の五つの部屋の命名を頼まれて、儒教の五つの教えである仁義礼智信からとって、それぞれの部屋の名称にしたことがあった。仁の間、義の間、礼の間、智の間、信の間の五つである。二つを合わせて使うときは、仁義の間、礼智の間となる。

 

そのときはあまり深く考えなかったが、その後、礼というのはただの礼儀作法のことではないと知った。白川静の『孔子伝』を読んで、礼は鬼神を祀る儀礼のことだと書かれてあったからだ。つまり、この世に存在しないものとどのようにして関わるか、その方法を知るのが礼だというのである。

 

なるほど、孔子の思想は決して薄っぺらな人生訓などではなかった。あの教訓的なイメージは、どうやら後世の為政者らが作り出したものだった。白川静が、「孔子はおそらく名もない巫女の子として、早く孤児となり、卑賎のうちに成長したのであろう。そしてそのことが人間について初めて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう。思想は富貴の身分から生まれるものではない。」と書いた、孔子の本当の思想はもっとずっと深いものだったのである。

 

この世に存在するものを知るためには、この世に存在しないものを知らなければならぬ。この世に存在しないものを知るためには、この世とあの世をつなぐ鬼神を祀る方法を知らなければならぬ。

 

今年は恐ろしい事件が多かった印象があるが、家に帰りついてドアを開けるといつも気持ちが和んだのは、今年から飼い始めたうさぎが、そこにぴょこんと座って待っていたからだ。うさぎは犬や猫と違って鳴くことがない。トイレもちゃんと決まったところでして、部屋を汚すことがないので、家の中で放し飼いにしている。ときどきはぴょんぴょん跳ねるが、それも犬猫のように騒がしくはない。だいたいいつも静かに黙って座っている。その黙って運命に耐えているようなところが、自然と尊敬の念を呼び起こすのだろう。家で、唯一「まりもさま」と様付きで呼ばれている。