コラム

雨に咲く花

何年か前の俳人たちの飲み会で、突然誰かが言い出して、その場で一人ずつ歌を歌うことになった。カラオケも、歌詞カードもなく、そらで歌える歌を皆がレパートリーから引っ張り出してきた。

 

一番手は、「ま~だ上げ染めし~前髪の~林檎のもとに~見えしとき」、島崎藤村の詩、舟木一夫の『初恋』である。一番ぐらいなら何とかなるが、三番まできっちり歌うのはなかなかできない。二番手は、「函館の~青柳町こそ悲しけれ~友の恋歌~矢ぐるまの花」、何十年ぶりかで聞く三橋美智也の『啄木旅愁』だった。前に聞いたのは、那覇のスナックじゃなかったかな。余韻に浸る間もなく、三番手の小林旭『北帰行』が続く。「窓は夜露に濡れて~みやこ~すでに遠のく」は、昭和30年代に新宿の歌声喫茶で歌われていた旧制旅順高等学校の寮歌である。それから、四番手が朗々と歌い上げる『相馬盆歌』に続いて、とうとう自分の番がきた。そのとき、やっと浮かんだのが、『岬めぐり』と『あの素晴らしい愛をもう一度』。いやいや、この流れでそれはないよ。「あなた~がいつか教え~てくれた 岬をぼくは~」なんて歌を、誰が聞きたい。でも、ほかに思い浮かばない。もう、あきらめろ、およばぬことと、あきらめるしかない。

 

およばぬことと、あきらめる。あれっ?そんな歌がどこかにあったぞ。そらで歌える、それも三番まできっちり歌える。『雨に咲く花』だ。

「およばぬことと 諦めました だけど恋しい あの人よ 儘になるなら いま一度

ひと目だけでも 逢いたいの

別れた人を 思えばかなし 呼んでみたとて 遠い空 雨に打たれて 咲いている

花がわたしの 恋かしら

はかない夢に すぎないけれど 忘れられない あの人よ 窓に涙の セレナーデ

ひとり泣くのよ むせぶのよ 」

『雨に咲く花』は、昭和10年公開の映画の主題歌として作られ、歌はヒットするも、時局にそぐわないと発売禁止になったのが、戦後の昭和35年、井上ひろしの歌でリバイバル・ヒットしたとある。

 

それにつけても、なんでこんな歌をそんなに覚えているのか。鹿児島にいた頃、高見順の小説『今ひとたびの』を読み終えて感傷に浸っていたら、ラジオでやっていた南日本放送の歌謡番組『城山すずめ』から聞こえてきた歌がこの歌で、歌詞を一心不乱に書き写して、繰り返し歌っているうちにすっかり覚えてしまったのだ。

 

高見順の小説の方は、本歌の「あらざらん此の世の外の思ひでに今ひとたびの逢ふこともがな」以外は、どういう話だったか忘れてしまったが、『雨に咲く花』は忘れようにも忘れられない。