コラム

おはよう

2020年10月20日

 

小津安二郎の映画『おはよう』に出てくる中学生と小学生の兄弟が着ていたおそろいのセーターが、むかし母親がブラザーの編み機で編んで私と弟に着せていたセーターと似ているのに気が付いた。横に一本、大きなシマが走っていて、並ぶと漫才の兄弟コンビのようで、今でも残っているセピア色の写真を目にすると、あの頃の気恥ずかしさがよみがえってくるような気がする。

 

『おはよう』の兄弟は、まだそのころ出始めのテレビに夢中で、学校から帰るなり、カバンを放り出し、親の目を盗んで、近所で一軒きりの、派手に何でも買ってしまいそうなバーの女給とキザな男の夫婦の家にテレビを見せてもらいに行く。テレビに映っていたのは大相撲で、アナウンサーの中継放送の声が聞こえてくるが、その声は、「右の人は〇〇関です。」などと言っている。

 

へー。このころは、土俵上の関取を、「右の人は」、「左の人は」、なんて言ってたんだ。素朴でいいなあ。昭和30年代はそういう時代だったんだ。

 

振り返ってみると、小津映画が盛んに上映されていた昭和30年代から40年代にかけては、いわゆる日本の国力がぐんぐん上昇していた時期だった。それが昭和50年代に入ると中身のない空疎なものに変わっていき、やがてピークを過ぎて次第に下がってくる。世界中のどの国のどの民族の歴史を振り返っても、人々の素朴な団結心のようなものが高揚しているうちは国力も上昇するが、永続きしない。それは必ず崩れる時が来る。古代ギリシア、古代ローマから古今東西、同じことの繰り返しのようだ。

 

小津映画が、戦争の傷跡を引きずりながらも、どこか希望を感じさせるのに対して、山田洋二の『男はつらいよ』シリーズが、なんとか笑いでごまかしながらも、つまるところどこにも希望がなく、絶望が通奏低音のように流れているのは、そうした時代背景のせいだろうし、今のお笑い芸人の氾濫も、それに通じるところがあるように思う。