コラム

サルも馬鹿にできぬ

2020年4月20日

 

世情騒然としている中で、内田樹の『サル化する世界』を読んだ。サルは、朝三暮四のあのサルである。中国の春秋時代、宋の国にサルを飼っている人がいて、朝夕四粒ずつのトチの実を与えていたが、節約するため「朝は三粒、夕は四粒にする」といったら激怒したので、「では、朝は四粒、夕は三粒にする」といったらサルは大喜び。この逸話を引いて、「今さえよければ、それでいい」というサル化が人間の世界で進んでいると内田はいう。確かに、このところの政府や自治体の大盤振る舞いを見ていると、さすがに夕方は何粒になるのか心配になる。

 

サルといっても、動物生態学者長谷川真理子の『朝三暮四』という評論文に、アメリカの心理学者プレマックが訓練していたサラというチンパンジーは、チョコレートが3つのせられた小皿と4つのせられた小皿のセットと、5つのせられた小皿と1つのせられた小皿のセットのどちらかを選ぶようにいわれたときに、3つと4つのセットを選んだと書いてあった。サラに、3つと4つのセットと、4つと3つのセットを見せたら、同じだと答えるのではないかと長谷川は結んでいる。フランスの碩学アンドレ・ルロア・グーランの『世界の根源』には、サツマイモを海水で洗って食べる宮崎県青島のサルの話が出てくるが、こうした頭脳的な発明に至る過程は人間もサルも同じで、「海水につかったサツマイモが、美味で歯触りもかなりよいと分かったのが偶然によるものだとしても、そのことに注目し、後々までそれを続けようとする行為には、まさに発明と呼べるほどの特徴が備わっている。」と述べている。「サルも馬鹿にできぬ」、のである。

 

内田本は、最初の『先生はえらい』から、洪水のように出版されて食傷気味になっていたが、久々にページを開いてみると、あった、あった。「いい年してガキ なぜ日本の老人は幼稚なのか?」と来た。

 

たしかに、いうとおりだと思う。ひところのカラオケでも、もう、昔のように演歌や民謡を歌う渋い老人は絶滅していた。詩吟や浪花節をうなる人もである。代わりに登場してきた老人たちは、チャラい男や痛い女たちだ。フォークソングやグループサウンズはまだしも、いやしくも還暦過ぎた老人が嵐やAKB48、乃木坂46なんか歌う姿を見せられた日には、2、3日は気分がすぐれない。つられて、あいみょんなんかを歌ったりした自分にも、ホトホト愛想が尽きる。