コラム

けなげで可憐な生きもの

寒いねと話しかければ、寒いねと答える人のいる暖かさ。昭和62年に出版された俵万智の『サラダ記念日』に出てきたこの歌は、寒い日には今も口をついて出るが、この感じは、もう今の時代のものではない。人と人が今とは違う仕方で関わりあっていた時代の、昭和の残り香だ。

 

ところで、寒いという字は、どのようにして作られたか。いちばん上に、ウかんむりの家の屋根がある。その下にあるのは草で、草の下には、人間がいる。そして、人間の下に氷がはっている。屋根、草、人間、氷の四つの象形文字を組み合わせて、屋根の下に草を積み、その中に人間がもぐりこんでいるけれど、大地は凍てついて「さむい」という意味をあらわしているのだそうだ。こんな風に象形文字をいくつも組み合わせて作った漢字を会意というのだが、この文字を作った古代人のことを想像すると、その営みのなんとけなげで、可憐な生きものであることかと思えてくる。

 

昭和も終わり、平成も終わり、令和になって思いもしなかった危機が迫ってきた。危機の危の字も会意文字である。何かというと、あぶない崖に差し掛かって、厂(がけ)の上と下に人がしゃがみこみ、うずくまっている様子をあらわしているのだそうだ。それと知ってから、危の字を見るたびに、厂の上と下に人がうずくまっている情景が思い浮かぶようになってきた。

 

ああ、時よ。城よ。無疵の心がどこにある。ボードレールの詩の一節だが、過ぎ去ったことが悲しいのではない、過ぎ去るということが悲しいのだ、と確か小林秀雄がどこかに書いていた。しかし、イタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』によると、時間は人間が存在するように感じているだけで、物理学的には時間は存在しないものだという。してみると、人は存在しないものを悲しんできたのか。

 

悲しいという字は、非と心からできている。非は、羽が左右に開いた様子で、両方に割れる意味を含んでいる。だから、悲は、心が割れ、胸が張り裂けるような切ない気持ちをあらわしている。