コラム

駅・詩篆絵書音

2020年1月20日

 

文人というのは、漢詩、書などの他に、画と篆刻ができて、初めてそう呼ばれる資格があると前に聞いたことがある。文人たらんとする者にとって、漢詩と書はありえても、画才に加え、篆刻まで物するのは至難の技である。

 

元高松国税局長の大島恒彦さんから、毎年絵入りの年賀状が届くのを楽しみにしていたが、今年は分厚い封書が届いて、開けると、「人心新歳月 春意舊乾坤 令和二年元旦」の五言二句の漢詩に篆書印が押された色紙と簡単な手紙があった。それには、昭和四十三年からの節目節目の絵入りの年賀状のコピーが添えられていた。

 

絵の中で私が気に入って何度も見入ったのは、昭和五十年当時の古い木造の四谷駅駅舎である。そんなはずはないが、その絵の佇まいがどことなく数年前に往ったJR肥薩線の嘉例川駅駅舎を彷彿とさせたのだ。大島さんは当時大蔵省四谷宿舎に住んでいて、その絵をスケッチしたと記してある。旧大蔵省の人たちから、よく四谷だか荒木町だかになじみの店があると誘われたのは、かつて宿舎があったからだったか。女でもいるのかと少し怪しく思ったこともあったが、それでなじみになったのだと改めて腑に落ちた。

 

駅といえば、江戸時代の紀行文を読んでいたら、主人公が長崎へ遊学するのに、江戸を立って、板橋駅から蕨駅、浦和駅、大宮駅と通過する。あれっ京浜東北線じゃないかと思いつつ、上尾駅、桶川駅、鴻巣駅と鉄道の駅をたどっていくので、一瞬明治時代だったかなと錯覚したが、やはり江戸時代の中山道の駅に間違いなかった。古代の律令制で主要な道路に三十里(約16キロメートル)ごとに人と馬などを常備した施設を置き、駅と称した名残りである。それにしても中山道は、江戸から京都へ向かうのに、わざわざ高崎駅を通って行くのだから、今からすればずいぶん迂遠な話ではある。

 

大島さんの手紙は、今年で九十三歳になるので、長い間続けてきた絵入りの年賀状を今年限り打ち止めにしたいという文面だった。大島さんの画は、知る人ぞ知るで、赴任先だった沖縄国税事務所や高松国税局にも飾られていると国税OBの人たちから聞いたこともあったが、漢詩、書、篆刻については色紙が送られてくるまでは気が付かなかった。私の記憶では、あの北大路魯山人が最後の文人だと何かに書いてあったのを読んだ気がするが、大島さんも文人だったのである。