コラム

直立不動

2026年3月19日

 

歌手と素人の違いは、歌のうまさではない。歌うときのたたずまいであると、最近になってようやく気が付いた。そしてその、歌手と素人のたたずまいの違いは歌のうまさ以上に越えがたいものであるとわかった。

僕は小学4年生のときに、いまも割合はっきり覚えているのだが、テレビの『ロッテ歌のアルバム』で橋幸夫が吉永小百合とデュエットしているのを見ているうち、歌手にならねばという気持ちがにわかに湧きあがり、ひそかに練習していたら、母親が近所のおばさんと、「うちのヨシユキは歌手になりたいらしくて、こっそり練習しているのよ」とクスクス笑いながら話しているのを立ち聞きして、死ぬほど恥ずかしい気持ちに襲われたことがあった。年端のいかない弟までがいっしょになってクスクスやっていたので、あとでぶんなぐってやろうと思った。しかも、母親ときたら、僕が橋幸夫のちょっと顔を傾けて流し目をするポーズまでマネをしてクスクスやっているのだった。

それがトラウマになったのか、長じて、僕はカラオケで歌うときも東海林太郎風にといっても、今の人はわからないだろうが、そのむかし東海林太郎といって直立不動で歌う歌手がいたのである。といっても、東海林太郎にとっては直立不動がたたずまいであって、決してたたずまいがなかったわけではない。

ともあれ、僕はかたくなに、たたずまいを作らずに歌うようになり、歌における、といっても演歌や流行歌だが、たたずまいのことをすっかり没却してしまっていた。もし、たたずまいが肝心だとわかっていたら、ギターを片手に流しをやるとか、地方のキャバレー回りをやるとかで、場数を踏んで、たたずまいを鍛えていただろうから。それが、僕が演歌歌手になれなかった根源的な原因なのだと思う。

なぜ、こんなことを思ったかというと、同業者の組合の親睦旅行に行ったら、僕より一回りぐらい年上の同業者で、プロの演歌歌手もやっているという人が、ラメ入りのピカピカ光る衣装と衣装以上にピカピカ光るネクタイで登場して、聴いたことのない持ち歌を朗々と披露する姿を目の当たりにしたからである。

そのとき僕は、ああ人間は、人間という病を患っている生き物なのだとあまり意味のないことを思いつつ、妙に感動したのだった。