コラム

鯨を食べる

1999年4月20日

 

あまり大きな声では言えないが、若い頃はたまに仕事をズル休みしてひとりで温泉につかりに行ってみたり、映画館にフラッと入ってみたりしてみたものだった。今でもときどきそういう誘惑にかられるが、若い頃と違ってついあとさきのことを考えるせいか、そんなこともできないでいる。いつかヒマができたらと思っているうちに、何年も時が経ってしまった。休日にはもちろん行ける。行けるが、それでは面白くない。こっそりというのに解放感がある。

そういえば、がちがちに縛られていた中学や高校の頃の方が、なんにしても解放感が強かった。息が詰まりそうになると、ひとり学校をさぼって一日海で泳いでいたり、山に上って本を読んだりしていたのだから、今から思うと随分牧歌的な情景である。ただ山の上や海岸べりで読んでいたのはホイットマンの詩集なんかではなく、サルトルやブレヒトや、たしか「都市の論理」とかなんとか、もっぱらそういう本だったのだから可笑しい。

もちろん、ときどきは電車に乗って街の映画館にも出かけた。「授業を抜け出して、ときどき出かけた♪ 」と歌の文句にもあるくらいだから、誰にでもあるだろうが。どこかに少し罪悪感があって、暗がりにじっとしているのが心地よかった。料金の安い場末の名画座は、観客はいつも2、3人しかおらず、補導の教師がいないかと闇に目を凝らすと、校舎の屋根裏部屋で一緒にときどきマージャンをやるTが座っていたりした。Tは、映画評論も書いているようだが、因果なことに今は文部省にいて教育改革とかでマスコミにもよく出ている。

教育については、こちらはあまりものを言えたガラではないが、最近は太平洋戦争のことを知らない大学生がいるという話を聞いた。戦争の話をすると、「へー」と驚いて、「それで、どっちが勝ったんですか」とたずねるという。社会のことに興味がないか、オトナをからかっているかだろうと思うが、なかには教育が足りないという人もいる。ほんとうに知らないとすると、教育の問題というよりも生活風俗の問題として、私たちのごく身近にあった「戦争」が、いつからそんなに遠くに行ってしまったのだろうと、少し寂しい気はする。

子供の頃はよく戦艦大和やゼロ戦の絵を描いたものだった。オトナたちから、戦争の体験談もよく聞かされた。マンガでも「紫電改の鷹」とか「ゼロ戦はやと」とか、次の号がいつも待ち遠しかった。映画の「空母赤城」の最後のシーンなどは記憶に残っているし、爆弾三勇士なども繰り返し見た。勝新の兵隊やくざとかフランキー堺の二等兵ものもよく覚えている。テレビでも「拝啓、….…」なんとかいう新兵のドラマをやっていて、あれにはたしかアオシマが出ていなかったかなあ。それから、実際に防空壕に入って遊んだこともあったし、米軍の機銃掃射の弾を拾い集めて叱られたこともあった。小国民よろしく、2B弾で戦争ごっこなどもよくしていた。今になって振りかえると、戦後の20年くらいは戦争中の風俗が私たちの生活の中に色濃く残っていた。それで憲法9条とか、民主主義教育とかいうものと、共存していたのだから不思議だ。

そういえば、戦後の論客の一人、江藤淳が亡くなった。軽井沢の蕎麦屋で10年ぐらい前に見かけたことがある。今までの文学者の自殺がけっこう形而上の悩みだったのに比べると、どうも形而下の悩みのようで、いかにも今という時代を反映しているように見える。

「人はなぜ死ぬか」、酔漢と議論をした。「人口を増やさないためである」。それでは、「人はなんのために存在するか」。「生態系を守るためである」。「鯨は多くなると魚を食いすぎる。すると生態系が壊れる。鯨を倒せるのは人間しかいない。鯨を減らすために人はいる」。そして、酔漢は立ち上がった。「よし、鯨を食べさせる店に行こう」。