コラム

森に降る雨

2000年10月20日

 

森総理がひどいバッシングにあっている。マスコミが言うほどひどいとは思わないが、へたにかばうと、こっちにまで火の粉が飛んできかねない。実際、もう飛んできている。ゴルフぐらいでそんなに目くじらを立てなくてもいいじゃないかと言ったら、家人に人でなし呼ばわりされてしまった。ハワイに行ってはしゃぎまわる報道陣や、ニュースが増えて歓喜をかみ殺しているキャスターたちより、森総理の方がマシじゃないかと言っても、返って火に油を注ぐだけである。

人間という奴は誰でも多かれ少なかれ異常な面がある。その人間たちが集まって出来ている社会である。異常でないわけがない。人の数だけ増幅されたプラスの異常を、しばらく経つとマイナスの異常が揺り戻す。そんなふうにして連綿と続いてきたのが、我々の歴史というものだろう。

新聞を開くと、森総理のゴルフをなじったあとで、「古い政治家うんざり、新しい人が望まれる」と、古い数学者のコメントが出ている。鶴田浩二の歌じゃないが、芸能界を見ても、数学界を見ても、「あたらし物好き」ばかりじゃありませんか。

この間ある集まりで、いまの会計のことについてたずねられた。時価会計やら、キャッシュフロー会計やら、減損会計やらだが、どうして、日本は、いつの間に、こんなことになってしまったんですかと言う。それは、米国のFASBがですね……と、その場はなんとか取り繕ったが、なにか違うという感じがずっと尾を引いて、どうしてこうなったのか真剣に考えさせられた。

どうしてこんな日本になったのか、自分なりに出した結論は、我々戦後日本人の「あたらし物好き」である。あたらし物好きが今日の日本の状況を招き寄せた原因ではないか。戦後日本人のあたらし物好きは、多分敗戦のトラウマによってもたらされた後遺症だろう。欧米との戦争に負けて、戦後日本人はそれまでの過去を根こそぎ否定した。そんなふうにして過去を失った戦後日本人は、あたらし物好きになって生き延びるしかなかったのである。それに比べて、同じ敗戦国であったドイツは、ある一時期を否定しただけで済んだ。占領軍と同根であるゲルマンの歴史まで否定する必要は、もちろんなかったからだ。

過去を失った国、新しいものを追い求めるしかない民族というのは、どういうことになるのか。どういう破局を迎えるのか。旧約聖書を開くと、いくつもの滅亡した国、滅亡した民族の物語が記されている。ジャパンという、戦争に負けて過去を捨て、新しいものだけを追い求めて滅びていった、そういう国があったと、いつの日か世界の戒めになるのかもしれない。