コラム

ガリ版刷りの切手

2001年7月20日

 

『ちゅらさん』という朝の連続ドラマを見ている。このところつまらないドラマが続いた中ではましな部類のドラマだと思う。主人公の一家は古波蔵と名乗っている。古波蔵は那覇の地名の一つでもある。20年前に1年だけそこに住んでいたので知っている。

先月、沖縄に行く機会があった。会議場とホテルで1日半をすごして、帰りの飛行機の時刻までだいぶ間があったので、街を歩こうとホテルを出た。カンカン照りの中、最初はよかったが、国際通りをいくらも行かないうち、汗が間断なく滴り落ちた。その上、旅行カバンの重みが肩に食い込んで苦力(クーリー)の様になってきた。旅先で読もうと分厚い本を何冊も買い込んだのがいけなかった。折りよく、「沖縄逓信博物館」という看板が目に付いたので、飛び込んだ。中はがらーんとして誰もいない。一時の涼をとり、せっかく来たのだからと、展示棚を覗き込むと、そこには、目を見張るような展示品が並んでいた。

戦前のものでは、久松五勇士の電報。明治38年5月、日露戦争の時にロシアのバルチック艦隊を発見し、宮古島久松から5名の青年が電信局のある石垣島まで、小船を一昼夜24時間漕ぎ続けて、「敵艦見ゆ」の電報を打ったのである。映画は『明治天皇と日露戦争』だったか、確かこの情報によって日本海軍はいち早く戦艦三笠を中心にバルチック艦隊を迎え撃つ体制ができて、日本海海戦を勝利に導くことができたのである。

戦後は、アメリカ軍の廃棄した酸素ボンベで作った郵便ポストや様々なものがある。その中で、一つだけ挙げろといわれたら、久米島切手だろう。米軍が沖縄本島に近い久米島に上陸したのが昭和20年6月26日。この日、久米島の三郵便局は業務を停止し、その後、郵便局の復活は米軍の支持を待って行われたのだが、そのとき昭和20年10月1日に最初に発行されたのが、ザラ紙にガリ版刷りで中央に久米島局長印が押印されている久米島切手である。

すっかり展示品に魅了されていると、いつの間にか館長と思しき人が現れ、椅子を勧められる。その上、麦茶まで出してくれた。それから、ひとしきり沖縄の郵便の歴史の話に聞き入って、気が付くともう飛行機の時刻が迫っていた。なんだかよくはわからないが、人間というのはたいしたものだ、このごろ救いがたく感じていたが、すっかり見直した気分になって、沖縄逓信博物館を後にした。

東京に帰り着いたら、両肩に大きなあざが出来ている。そうか、とんだ沖縄土産だ。それにしても、あざが出来るほどの重みだったとは。