コラム

貧乏な日本

2002年11月20日

 

高田馬場の表通りから『ユタ珈琲店』が消えた。いつものようにコーヒーを飲んで帰ろうとすると、ウェイトレスから「お客様」と声をかけられ、一瞬うろたえたが、「今月いっぱいで閉店することになりました」と告げられる。「開業してから50年以上になるらしいんですが…」と消えいりそうな声で言う。店が生まれたのは自分とどっちが先だろうと、開業の年を聞くと、カウンターの中の店主に確かめに行ってくれて、昭和23年とのこと。昭和23年というと片山哲内閣の時代、斜陽族ブームの中、太宰治が玉川上水で入水自殺した年ではないか。下山事件、三鷹事件、松川事件はもう1年待たねばならない。

その頃の喫茶店といえば、佐藤昭子の『私の田中角栄日記』にこんな話が出てくる。離婚して雑司が谷の借家に住んでいた佐藤の元に、ある日突然大きな外車に乗った田中角栄が訪ねてくる。外車に佐藤を乗せて池袋の喫茶店まで行ったが、落ち着かないので、注文したコーヒーが来ないうちに店を出て、白山下の三業地の料亭に行き、そこで佐藤に自分の秘書になってくれと頼んだ。このとき角栄35歳、「越山会の女王」と呼ばれることになる佐藤はまだ24歳だった。

むかし「戦後」という時代があったと関川夏央はいう。といっても、関川が『砂のように眠る~むかし「戦後」という時代があった』を書いたのは平成5年のことだから、その時からもう10年が経っている。しかし、戦後という独特の時代があったのは確かだと思う。なぜなら、今は明らかに以前とは違う空気が流れているからだ。人々が一種の慙愧の念を封じ込めるようにはしゃいでいた戦後の空気が、こんなふうに無味無臭なものに変わったのは1980年ごろを境にしてではなかろうか。

もはや戦後ではない、といったのは昭和31年度の経済白書だが、どんなことが書かれていたか開いてみた。

「なるほど、貧乏な日本のこと故、世界の他の国々にくらべれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期にくらべれば、その欲望の強烈さは明らかに減少した。もはや戦後ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。」

だが、このときはまだ戦後は終わっていなかったし、それほど異なった事態にも当面することはなかったのだ。

今からすれば“貧乏な日本”、“欲望の強烈さ”、という言葉がキラキラ輝いて見える。

戦後は遠くなりにけりである。