コラム

恐るべき現代

2003年4月20日

 

飯島耕一の詩集『宮古』に触発されて沖縄の宮古島に飛んだのは四半世紀も前の夏の終わりだった。9月も半ばを過ぎてもう真夏の喧騒は遠のいていたが、肌を焦がすような日差しは少しも衰えていなかった。その頃の那覇空港から宮古の平良空港までの飛行機は一日に2便しかなかった。南西航空のプロペラ機の懸命なうなり音と、乗務員室を仕切っていたカーテンの手垢のしみがやけに記憶に残っている。

港の近くに宿を取って、夕暮れの浜辺で篠原鳳作の句碑を探した。「蟻よ、バラを登りつめても陽はまだ遠い」。昭和初期の宮古島に中学教師として東京から赴任した無季派の俳人篠原は、やがて病に倒れ故郷鹿児島でその短い生涯を閉じたのだった。

翌朝バスで宮古島の北端のなんとかいう岬に向かい、そこから黄金丸という船に乗って池間島に渡った。池間島は四方に1キロもないくらいの小さい島で、中心部の高みに立つときれいに周囲が見渡せた。迷路のようにぐるぐると回っている道をたどっていき、食堂らしい建物があったので入ると、中は薄暗く、当時流行っていたインベーダーゲームの怪しい光だけが明るかった。暗がりの中で食べ物を頼むと、カップ麺にお湯を注いだだけの簡単なものが出てきた。それから2~3時間、ウパルズウタキという霊場でしばらくじっとして霊気に耳目をそばだてた。

帰りの黄金丸はだいぶ揺れた。雨と風が出てきていた。台風が急に発生して近づいていると誰かが説明していた。宿に着いた頃には、もう横殴りの雨と風に変わっていた。予期せぬ台風によって、翌朝の宮古からの脱出は不可能となった。それどころか、1週間宿に閉じ込められる羽目になった。その間退屈しのぎのテレビはNHKと教育の2局しかなく、「おかあさんと一緒」にするか「邦楽アワー」にするかで、毎日迷った。

 

巷では、選挙の月だが、このところの選挙の投票率は下がる一方である。2人に1人はだいたい投票していないし、悪くすると3人に2人ぐらいが投票していない計算になる。これは政治不信が原因だとか、争点がないためだとか言われているが、どうもそんなことではないような気がする。そもそも、人が人を選ぶことに対して違和感を持つ人が増えているということではないだろうか。つまり、選挙という仕組みがもう現代に合わなくなっている。いま投票に行く人は、人に頼まれたからとか、利害が一致するからとか、実は自分に弁解をしながら、違和感を押さえつけて行っている人ではないのだろうか。

だからといって他にいい方法があるわけでもない。これだけ制度があふれていても肝心かなめなところにぽっかり穴があいている。それで、「おかあさんと一緒」にするか「邦楽アワー」にするか・・・。現代は怖い時代である。