コラム

負ける側にいたい

2004年9月20日

 

1937年から1945年にかけての日中戦争・太平洋戦争で、日本がどれだけの戦費を費やしたか調べてみると、1,650億円である。これはしかし、当時の物価で一般会計歳出の20年分に相当する。今の歳出額に換算すると、20年分は1,600兆円にもなるから、いかに巨額であるかわかる。他の国を見ると、イギリスや中国は日本と同程度だが、ソ連やフランスは2倍以上、ドイツは5倍以上、そしてアメリカは日本の6倍にも達している。その結果として、日本やドイツは経済的にも戦争を継続する力はもうほとんど残っていなかったが、米国やソ連が十分に余力を残していたことはその後の歴史を見れば明らかである。各国の戦費を合計すると、米英の連合国側がやはり日独伊の枢軸国側の2倍以上の優位に立っている。今から考えると、枢軸国側としてはソ連を味方に付けるしか勝ち目はなかったわけだが、それは当時の政治的思想的状況からしてとうてい無理というものだった。

日本は、1894年の日清戦争のときは2億円の戦費がかかったが、清国から3億円の賠償金を得て儲けている。1903年の日露戦争のときは、17億円の戦費がかかったにもかかわらず、賠償金は全く取れず、国債と増税でまかなわざるをえなかったため国民の間に不満が高まった。日比谷焼き討ち事件はこのときに起きている。日中戦争・太平洋戦争の際の、1,650億円の戦費は、国民に戦時公債を買わせてまかなわれたが、その後どうなったかというと、戦後の猛烈なインフレーションによって公債の償還は難なく行われている。

日米開戦に先立つ4か月前の昭和16年夏、内閣総力戦研究所で行われたシュミレーションでは物量において劣勢な日本の勝機はないというものだった(猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』)。国力の差は歴然としており負けるとわかっていた戦時中の日本に、しかし「敗北を日本人の間にあって受けたい」と米国から帰ってきた人もいた。「この戦争については、アメリカの方がいくらかでも正しいと思ったんだけど、勝ったアメリカにくっついて、英語を話して日本に帰ってくる自分なんて耐えられないと思ったんだ」。(鶴見俊輔『戦争が残したもの』)。

今の日本で外資にくっついて、英語を話して勝ち誇ったように帰ってくる人たちに、この負ける側にいたいという心情が、理解できるだろうか。