コラム
苦 行
2025年5月20日
指宿の砂むし温泉が健康にいいという話が何かに載っていた。去年、鹿児島での高校の、最後のと銘打った同窓会のついでに、指宿に寄って、せっかくだからと砂むし温泉につかったが、どうも苦しいばかりで、とても健康にいいという印象は持てなかった。
番号札をもって薄暗い小屋へ行き、順番に指示された区画に横になって待っていると、アルバイトの学生らしい若者がスコップで黒く湿った重い砂を掛けてくれる。それが、ことのほか重たく、苦行のような時間が続く。写真を撮りますかと聞かれて虫の息で肯くと、撮影の間だけちょっと気がまぎれたが、時間が来て苦行から解放されたときには蘇生したような気になった。
鹿児島県指宿市立今和泉小学校、それが僕の卒業した小学校である。そこにちょうど転校してきた五年生の時に給食が始まったが、山の分校から来ていた子たちの中には給食費が払えず、給食の時間にはいなくなる子たちもいて、給食の時間はそんなに楽しい時間ではなかった。沖縄が復帰するまで、鹿児島県は日本で最も貧しい地域で、県民所得を示す日本地図で一つだけ真っ赤に塗られていた。まだ残っていた小作農の家の子の中にはランドセルを持っていない子もいた。校舎は雨が降ると雨漏りがして、教室のあちこちにバケツを置いた。休み時間は裸足で走り回っていたので、ときどき校庭に植えられているサボテンのとげを踏んだ。
そこに転校してくる前は、指宿市のもっと中心街にあった小学校に通っていた。その時に同じ学年にいた五人が後に私立の中高に進み、高校卒業までの六年間一緒になった。五人のうち三人は脇目も振らずまっすぐに進んで医者になった。S君と僕の二人だけが脇道へそれた。S君は、そのころ勝共連合といっていた統一教会に取り込まれて、当時マルクス少年になっていた僕に盛んに干渉してきた。田中君のことが心配だと警告する手紙が家に何度も届いた。
彼は九大に進んで、その後会うこともなかったし、思い出すこともなかったが、四十歳の不惑を過ぎたころだったか、僕に会いたがっていると人づてに聞いて、会いに行った。そのときは、もう昔のように議論することも、あまり話すこともなく、なにか物足りない思いだけが残った。それはS君がまだ信仰を捨てていないのに対して、僕の方はあの頃のマルクス少年からすっかり変わってしまったからなのだろうと勝手に想像した。