コラム

生き恥をさらすということ

2017年9月20日

 

「司馬遷は生き恥さらした男である。」の書き出しで始まる武田泰淳の『司馬遷』に、歴史家の兄弟の話が出てくる。時の権力者がその君主を殺した。歴史家がそのことを記録したら、けしからん奴だと権力者は殺してしまった。すると歴史家の弟がまた同じことを記録した。権力者は弟も殺した。すると弟の弟がまた同じことを記録した。権力者はさすがにもう三度目には殺そうとしなかった。この歴史家の厳しさを、司馬遷もまた背負っていた。

 

司馬遷が漢の武帝の怒りを買って獄につながれたのは、匈奴との戦いに敗れ捕虜となった李陵将軍を擁護したためであった。だが、武帝が考えを改めようとした矢先、捕虜となった李陵が敵の匈奴兵に軍事訓練を施しているとのうわさが聞こえてくる。これを聞いて激怒した武帝は、李陵の一族を処刑し、司馬遷にも極刑が命じられた。死刑か、それとも辱めの極みともいえる宮刑(腐刑)か。宮刑(腐刑)は、強制的に宦官にさせられてしまう刑で、当時の感覚では男とも女ともつかぬ人間以下の存在になることを意味した。司馬遷は『史記』を完成させるために、生き恥をさらす宮刑(腐刑)を選んだ。

 

司馬遷は、生き恥をさらしながら、知にこだわり、知を完成させた。

 

この司馬遷にはるかに及ばないという意味から名前をとったのが、司馬遼太郎である。

 

しかし、生き恥をさらしているのは司馬遷だけではない。このところ、生き恥をさらしてでも議員を続けるという人たちが相次いで国民を困惑させた。

 

政府は国民のものだというのは一つの虚構である。それは、会社が株主のものだという虚構に似ている。会社は、役員と従業員が事業を行って生計を維持し産をなすための組織であることがその本質であるが、広く株主のものであるという虚構をまとっている。株主は、会社に資金を提供する役割を負っているに過ぎないのだが、その株主を持ち上げることで資金を集めやすくすることが、この虚構の目的である。虚構の意味を否定的にとらえているのではない。会社は、この虚構があって初めて機能するのである。

 

会社の例えに倣えば、政府はその政府の運営にかかわる人たちが生計を維持したり産をなしたりするための組織であるが、広く国民のものであるという虚構をまとっている。国民は虚構であると知っているが、一応知らぬふりをしているのである。